【参院選2013への決意】 「ヒロシマの議席」回復を目指して【さとうしゅういち元委員長】

参院選2013への決意】 「ヒロシマ議席」回復を目指して

 枕元に無造作におかれた花束。候補者に渡されると信じていたのに・・・。

 2003年11月9日執行の衆院選挙。広島市内で最後に残っていた反原発衆院議員・金子哲夫さん(社民党公認、当時は連合広島推薦)を、わたしは必死で応援しました。当時、自治労広島県職員労働組合三次支部反核平和運動を主に担当していたわたしにとり、組合推薦の候補で応援できたのは金子さん、そして、広島1区で立候補された民主党原発派のリーダー・柿沼正明さんだけでした。しかし、柿沼さんは、広島1区で惜敗し、比例でも及ばず、金子さんは広島3区では自民党候補に大敗し、比例区でも及びませんでした。

 この瞬間、広島市内から、衆参通じて、反原発を鮮明にする国会議員は消えました。1998年、栗原君子さんが、参議院で広島地方区で落選し、参議院からはすでに反原発の広島都市圏出身議員は消えていました。

 その夜、わたしは、電車に乗り遅れ、金子事務所近くのスタッフ用の宿泊室に泊めていただきました。枕元を見やると、金子さんにわたる予定だった花束が転がっていたのです。

 本当に、金子さんを、柿沼さんを一生懸命応援したのに悔しい。

 この瞬間から、わたしは、いつか、自分が、反原発の国会議員として広島から出たい。その決意を固めました。

 民主党で出て、党内で反原発の声を上げるという路線を模索した時期もありました。民主党員として、また自治労広島県職員連合労組支部役員(平和担当)として、影響力を最大限行使しようと頑張ってきたつもりでした。

 しかし、民主党は、政権交代以降、原発輸出推進などに舵を切った。広島の自治労自体も、組織内県議を中国電力に推薦してもらっている関係から、脱原発の旗を徐々に降ろしつつありました。そうしたことも、このままではどうしようもない、と県庁を退職し、民主党も離党し、「緑の党」で正々堂々、原発今すぐゼロで闘うことになった背景にあります。

 10年前の悔しさは忘れてはいません。

 時は流れ、2012年衆院選では、民主党を離党し、卒原発を掲げた未来の党菅川洋さんを広島1区で応援しました。しかし、彼も得票は自民党に遠く及びませんでした。

 「もはや、俺がやるしかない。俺がやらなかったら、被爆ヒロシマは、いつまでたっても、原発推進の議員ばかりになってしまう。」

そう考え、参院選・第二次予備選挙に立候補する決意を固めました。

本当は、選挙区で出たい思いもありました。ヒロシマの代表として。

しかし、今は、そんなことは言っていられません。ヒロシマの反原発議席を確保するため、雨の日も雪の日も、街頭に立ってきました。
「俺は原爆でも生き残った。原発も大したことないのでは?」とおっしゃる、地域の有権者の皆様にもおひとりおひとり、訪問し、カラオケを一緒にし、わたしの政治方針に納得していただいた。

このように、死に物狂いで、地盤固めも手を抜かないできたつもりです。平日は民間企業で仕事をしながら、残りの時間を注いでまいりました。

わたしを突き動かす要因のひとつは、あの10年前、金子哲夫さんが落選するのを、事務所で目撃し、当選したら送られる予定の花束を枕元で目撃するという、屈辱を味わったからにほかありません。

「石にかじりついても、核の被害をこれ以上は繰り返したくない。」その思いは、民主党時代も変わりませんでした。 しかし、母方のルーツのあるフクシマでの3.11を防ぐことができなかった。

その悔しさをばねに、とにかく、前進あるのみです!