さとう元委員長 2013参院選への決意(2)

わたくし、さとうしゅういちの考え方と活動について、これまでお話をさせていただいていました。

さとうしゅういちは、福山に生まれてすぐ移り住んだ超大規模都市東京での経験、そして、広島県中山間地域での行政経験から、むしろ、これからは、もっと地方で、人々、とくに若い人が暮らせるようになるようにすることで、この国も長持ちするし東京人にとってもプラスである、と確信していることをお話しました。

また、小学校3,4年の時の担任の先生が、たまたま被爆者でカープファンで、原爆とカープの話を...良くしてくださったことが、影響して、地方の中でも結局広島を選んだこと。そして、その後の反核平和運動脱原発運動への参加につながったことをお話しました。

そして、特に井伏鱒二の黒い雨の舞台である安佐南区、そして、故郷の福山市、ここでの活動にこだわりをもっていること、黒い雨の主人公の田中好子さんのことも影響して、ピンクリボン活動に興味を持ったこともご紹介しました。

男女共同参画の市民活動に参加するようになった経緯について今日はお話をします。

わたくし、さとうしゅういちは、各地で医療、介護などの行政に携わておおりました。そんな中で、実際に介護を担っている方の多くを占める(今でこそだいぶ男性の比率も増えましたが)、女性の声と言うものも、介護行政の立案になるとあまり反映されていないことに気が付きました。いろいろな県がやるシンポジウムでも、介護関係なのに、パネリスト全員男性とかそういうケースも多かった。

また、民生委員でも委員自体は女性が圧倒的に多いのに協議会長は男性ばかりと言うのも、「おかしいぞ」と単純に思いました。

また、最近では広島県内で面白い企業とかNPOとかいえば、女性の経営者が多い。これはある意味歴史的必然です。だけど、そういう人の知恵はあまり、行政に生きていないのではないかと思われました。これは、あまりにももったいない話です。

そんな時に、2006年ころ、女性議員を増やそうと活動しておられる方と出会うことになりました。2007年の統一地方選挙では
党派を問わず、女性議員候補を各地で応援して「転戦」したのを昨日のことのように覚えています。

さらに、そこで、DV問題についても取組を持つようになりました。この問題は、男性議員よりはどうしても女性議員が取り上げる傾向が強い、というより、男性議員はほとんど取り上げなかった。そういう意味で、女性議員との出会いで、視野は広がりました。

2008年には、岡山で開催されたシェルターシンポジウムに参加しました。
【医療現場におけるDV被害当事者への対応】と、【DV防止・被害者支援の施策をどうつくるか】に参加しました。http://janjan.voicejapan.org/living/0811/0811242147/1.php
当時公務員だった私が、活かせたのは「医療現場におけるDV被害者への対応」で、医療機関の立ち入り検査の際に、DV対策のパンフレットのコピーを、先方に渡す、という程度のものです。でも、岡山県では全機関にパンフをわたしていたのに、広島は大きなところしか送っていなかった。そのギャップを埋めたいという思いでした。

大阪では、2010年秋に、日韓暴力防止シンポジウムにも関わりました。
http://www.janjanblog.com/archives/21577

これより前、前年の2009年夏に、女性議員ら20人くらいと一緒に韓国を訪問したことも踏まえてのシンポジウムでした。

また、同時期に女性の非正規労働問題への取り組みも2006年以降はじめました。大阪や京都方面では、裁判の支援などの活動にも取り組みました。

 2008年春以降は、若者、男性へと広がる貧困問題についての取り組みにも足を踏み入れました。

 既存組織ではすくいあげられない声を、声とする。そんな場として「生存のためのメーデー」を開始したのはこの2008年です。

 これらの活動の中で、今の日本では、非正規労働も女性、そして、さらに男性へと拡大し、今までの企業主義、世帯主義の社会保障がうまくいかないことを確認。家族の扶養義務と言っても、これだけ、家族も昔のようではなくなっている中で、無理な話です。

 2009年当時の民主党は、現状のこうした行き詰まりを打開する可能性をマニフェストで見せてくれてはいました。わたしも、この点は期待はしました。

 個人単位で、男性も女性もとくに教育や医療については安心できるようにしないといけない。そうしないと、生まれた家庭などで、機会も不平等が著しくなってしまいます。

 それを民主党が是正するなら、それもよし。そう思ったわけです。

 ところが、民主党の支持基盤は、旧体制で自民党の支持基盤である経団連ともども「うまいめし」を食ってきた連合・自治労や電力総連と言った組合幹部です。民主党広島県連でも、多くの議員は連合・自治労や電力総連の組織内または組織的つながりが深い方が多い。

政権交代とは、自治労広島県職労支部執行委員だったわたしにとっての苦闘の始まりでもありました。

そして、第一ラウンドは、以前もご説明したように、わたしは、労働貴族により、組合からも県庁からも事実上追放されることになります。

建て前民主党支持、本音は既得権護持の労働貴族のやり口はひどかった。


労働貴族」について取材を頂く http://hiroseto.exblog.jp/17922786

労使交渉の場でわたしが、女性の非正規労働者の声を当局側に
伝えたときのことです。なんと、組合専従歴が長い男性幹部は、わたしの発言を抑え込むように「組合員から変な声が出ないよう、組合員をきちんと指導します。」などと言い出す始末でした。結局は、当局と一緒になって既得権益を護持したいのが、男性幹部だったわけです。

2010年夏、役員の任期切れに当たり、わたしは「俺は役員を辞める。女性が私の後を引き継いでくれればいい。」といいました。ほかの役員は大慌てでわたしを慰留しました。

いまにしておもえば、あの時強硬に辞めておけばよかったと後悔しています。

この夏の参院選で県職連合は柳田稔元法相を広島県選挙区で推薦。しかし、わたしは、柳田さんの個人的な人格はともかく、支持基盤からして、国民の生活より労働貴族の権益重視の政治になると判断、中川けいさんを個人(当時は平の民主党員)として支援しました。

そうすると、自治労の県本部副委員長(現連合広島事務局長)から二度も恫喝を、電話でしかも仕事中にいただいたのはお話した通りです。

その後も、組合執行部との関係は悪化。2011年1月にわたしは事実上、追放されました。

しかし、わたしとしては、筋を通した結果です。なんの恥じることもありません。

 経団連主導の政治を国民本位にモデルチェンジしようとする動きを、財界もですが、労働貴族もまた邪魔をしたのです。わたし自身がその生き証人です。

 さとうしゅういちは、労働運動にも限界を感じ、政治で仕組みを変えて、日本をモデルチェンジする。その道を進むことを決意しました。

その後、わたしは、2011年8月から広島市男女共同参画審議会の市民公募の委員をさせていただいております。

その中で気づいたことがあります。「連合広島」の代表の男性幹部は毎回ご欠席しておられます。何を考えておられるのか?

男女共同参画社会とはざっくりいえば、性別とかそういうことにとらわれない、「やわらかい社会」です。

ところが、労働貴族の皆さんは、戦後の硬いピラミッド型の社会で既得権益を護持されてきた。

昔と今は違うのに、昔のモデルに執着しておられる。その結果が毎回のご欠席に表れているのではないか、と思うのです。

さとうしゅういちは、8月5日執行の福山市長選挙において、労働貴族と市長、議会の癒着が目立つ福山市政、古いモデルに執着している福山市政をオープンでやわらかい市政にモデルチェンジしようという市民の皆様を全力でお手伝いします。

そして、2013参院選においては、第三の選択肢を示し、「やわらかく長持ちする日本」にモデルチェンジする先頭に立つ覚悟です。

その過程で、かつての仲間(労働貴族にひきずられて初心を忘れた民主党議員や連合・自治労の一部幹部)を「打倒」することになるでしょう。でも、戦国時代ではあるまいし、政治的に打倒しても、命までとるわけではないのです。

 そもそも「労働貴族」が「打倒」されても、本当の労働者の味方である労働組合は、それ相応の役割を果たすでしょう。
社会的に必要なものは生き残ります。

どうぞ、今後とも、いろいろとご指導・ご鞭撻のほどをよろしくお願い申し上げます。