「きまぐれな日々」が指摘する「原発推進」「小さな政府論」のたそがれ

「鍋党」(再分配を重視する市民の会)を呼びかけられている「きまぐれな日々」さんの最新記事をご紹介いたします。

http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1170.html

新年度の最初の日を迎えた。

西日本、というか電力の60Hz地域(中部電力以西)や北海道にお住まいの方には実感がわかないかもしれないが、東日本大震災の被災地のみならず、広く東北・関東では「3・11」以前と以後で社会が変わったというのが実感だ。いうまでもなく、福島原発事故の影響が大きい。

本エントリでは、原発事故に言及する前に、日本の政治の大枠に大きな変化が生じつつあることを指摘しておきたい。それは、「小さな政府」論の猛威が、震災とともに止まったことだ。震災の直前には、名古屋市長・河村たかしの「減税日本」(その正体は「強者への逆再分配日本」)が注目し、地方議会の民主党議員には、民主党を離党して「減税日本」入りする人間が続出した。東日本大震災の被害を受けなかった名古屋市では、震災2日後の3月13日に予定通り名古屋市議選が行われ、「減税日本」が第一党となったが、同党が目指していた議席過半数は獲得できず、一部で予想されていたほどの圧勝にはならなかった。

それでも、震災の被害のなかった名古屋で、原発事故についてもマスコミのミスリードによって楽観的な見通しが支配的だった大地震2日後の選挙だから「減税日本」第一党という結果になった。震災後、「減税日本」が注目される頻度は減り、それどころか被災地をはじめとする東日本の再興には莫大な政府支出が必要であることは自明だから、「減税」の主張自体が説得力を失っている。今や経団連でさえ法人税減税を諦め、それどころか法人税所得税増税を自ら言い出している。

昨日読んだ新聞記事に、経団連が「消費税増税」を言い出したという記載はないが、今朝(4月1日)の朝日新聞一面トップ記事「復興へ新税創設案」を読むと、政府・民主党は「復興基本法案」の一環として「特別消費税」の創設を検討する、などと書かれている。政界の癌・与謝野馨を内閣に取り込んだ民主党・菅政権の悪弊が出たと評すべきだろう。いったい、震災で何もかも失った東北の人たちまで含めて「薄く広く」税を徴収しようというのか。こういう時にこそ「持てる者」から「失ってしまった者」への富の再分配が必要ではないのか。だから経団連でさえ法人税増税を言い出す一方で消費税増税には触れなかったというのに。与謝野は、原発事故に関しても原発推進論固執するトンデモ発言を行ったが、新自由主義原発政策を推進した中曽根康弘の腹心だっただけのことはある。私が与謝野を「政界の癌」呼ばわりするゆえんだ。

ともあれ、菅政権や与謝野への批判はともかく、「小さな政府」論が自然災害によって一気に勢いを失ったことは事実だ。こんな時に「小さな政府」では東北など東日本の再興はままならないことは誰の目にも明らかだからだ。

昨日(3月31日)付の朝日新聞苅部直東京大学教授が書いた「あすを探る」というコラムに、山口二郎が「週刊金曜日」の3月25日号に書いた論考が紹介されている。同コラムによると、山口は、東日本大震災小泉政権から「減税日本」にまで続く、「人々に剥奪されているという被害者意識を植え付け、それを公共的なものの破壊に向かわせる」動きを停止させる機会だと指摘する。被災者に対して何かをしたいと思う、多くの人たちの気持ちを、「社会的連帯と相互扶助の政治」を作りあげる基盤にしてゆくことが求められていると論じているとのことである。

私は山口二郎とか「週刊金曜日」と聞くと眉につばをつける人間だが、小泉純一郎の「構造改革」から河村たかしの「減税日本」に至る流れを批判した主張自体はまっとうそのものだ。苅部直は山口の論考を受けて、
「小さな政府」の喧伝という、多くの人が疑問に思っていたにもかかわらず、止めることのできなかった問題を、改めてとらえなおし現状を変えてゆく、大胆な構想力。それがいま必要なのであり、もはや課題の先送りは許されない。

と書いているが、その通りだと思う。「鍋パーティー」もその思いから立ち上げた。震災により鍋パーティーのブログも先月中旬以来更新を中断しているが、近く再開を予定している。


政治の世界も流れが変わった。子ども手当のつなぎ法案は、共産党社民党が賛成し、参院本会議では「みんなの党」の参院議員・寺田典城(てらた・すけしろ)が党の方針に造反して賛成に回った。採決は、民主党を牽制する国民新党亀井亜紀子が欠席したために賛否同数となり、参院議長・西岡武夫が可決を宣言して成立した。「小さな政府」側の足並みが乱れ、「減税日本」(=「強者への逆再分配日本」)に露骨に接近していた民主党小沢グループには、焦りの色も見られる。

福島原発事故を契機に、あれほどエネルギー政策問題に無関心だった世論も一変した。政治にせよ社会にせよ企業活動にせよ、物事が一度動き始めたら慣性を止めることは非常に難しい。だから、政治権力は「既成事実を作る」ことに腐心するのだが、「日本の原発は安全」という神話に基づく原発政策や東京電力を筆頭とする企業活動はその最たるものだった。その神話が、東日本大震災に伴って起きた福島原発事故によってあっけなく崩壊した以上、政府が政策転換を迫られるのは当然だ。

菅直人首相や枝野幸男官房長官は、矢継ぎ早に「エネルギー政策の見直し」の言動を行っている。「特別消費税創設」については評価できない「復興基本法案」にも「原子力に依存しているエネルギー政策を見直す」と明記されることになったのは当然だが、自公政権だったらこの点だけでももめたに違いない。実際、産経新聞は、
 自民党谷垣禎一総裁は31日午後の記者会見で、日本の原子力政策の見直しについて「諸外国みなが見直すと世界中のエネルギー需要の変更につながるので、視野を大きく取りながら組み立てないといけない」と述べ、慎重に検討すべきだとの見方を示した。

と報じている。とはいえ、同記事によると、原子力政策に関する自民党の新たな基本方針はエネルギー政策合同会議(甘利明委員長)で取りまとめる予定だというから、自民党の政策も今までと同じというわけにはいかないだろう。もちろん、当ブログに前にも書いたように、政権を担う民主党は、小沢一郎代表時代の2006年に「原発慎重論」から「原発積極推進論」へと転換したエネルギー政策を、最低でも元に戻すべきだ。

東京電力は賠償に巨額の費用が必要で、もちろん東電に賄い切れるはずもないから、東電の一時国有化は必至だろうし、議論は原発国営化論にまでつながるだろう。何が問題だといって、営利企業原発のような危険なプラントの運転を任せていたことほど大きな問題はない。営利企業には、何より収益を上げることが第一に求められるから、自ずとコスト低減の圧力が強くかかる。採算を度外視した安全対策など企業にはできず、原発のような国策でなければ、ソロバンが合わなければ企業は事業から撤退するのだが、国策だからそれもできない。その必然の帰結として地震やそれに伴う津波などの対策がおそろかになる。これが「資本の論理」である。この「資本の論理」が、今回の福島第一原発の事故を引き起こした。

決して「想定外」などではない。今回の原発事故以降、これまで惰性で原発推進論をとってきた朝日新聞毎日新聞の論調に顕著な変化が見られるが、その一例として、毎日新聞の福岡賢正記者が書いた記事(下記URL)を紹介したい。なおこの毎日新聞記事は、ブログ『反戦塾』の記事「原発は国営化せよ②」経由で知った。
http://mainichi.jp/select/opinion/hasshinbako/news/20110329ddm004070015000c.html


発信箱:すべて想定されていた=福岡賢正

 原発事故の報道に強烈な居心地の悪さを感じている。その理由を突き詰めていくと、メディアが安易に使う「想定を超えた」という言葉のせいだと思い至る。眼前で今起きている事態は本当に想定外だったのか。

 《最大の水位上昇がおこっても敷地の地盤高(海抜6m以上)を越えることはないというが、1605年東海・南海巨大津波地震のような断層運動が併発すれば、それを越える大津波もありうる》

 《外部電源が止まり、ディーゼル発電機が動かず、バッテリーも機能しないというような事態がおこりかねない》

 《炉心溶融が生ずる恐れは強い。そうなると、さらに水蒸気爆発や水素爆発がおこって格納容器や原子炉建屋が破壊される》

 《4基すべてが同時に事故をおこすこともありうるし(中略)、爆発事故が使用済み燃料貯蔵プールに波及すれば、ジルコニウム火災などを通じて放出放射能がいっそう莫大(ばくだい)になるという推測もある》

 すべて岩波書店の雑誌「科学」の97年10月号に載った論文「原発震災〜破滅を避けるために」から引いた。筆者は地震学の権威、神戸大の石橋克彦氏。つまり今回起きたことは、碩学(せきがく)によって14年も前に恐ろしいほどの正確さで想定されていたのだ。

 石橋氏はその後も警鐘を鳴らし続け、05年には衆院公聴会でも同様の警告を発している。電力会社や原子力の専門家たちの「ありえない」という言葉を疑いもせず、「地震大国日本は原子力からの脱却に向けて努力を」との彼の訴えに、私たちメディアや政治家がくみしなかっただけなのだ。

 05年の公聴会で石橋氏はこうも警告している。日本列島のほぼ全域が大地震の静穏期を終えて活動期に入りつつあり、西日本でも今世紀半ばまでに大津波を伴う巨大地震がほぼ確実に起こる、と。(西部報道部)

毎日新聞 2011年3月29日 東京朝刊)


この記事はほんの一例であり、「平成23年東北地方太平洋沖地震」によってもたらされた津波の被害が、決して「想定外」などではなかったことはいたるところで指摘されている。今までと違うのは、それが大新聞などのマスメディアでも報じられるようになったことだ。

事故が起きてみると、今まで日本でこれほど大きな原発事故が起きなかったことが不思議に思えるほどだ。世界的に見ても、原発の運転を民間企業にだけ任せている国は、他に例を見ないそうだ。これからは、「資本は災厄をもたらす」ことを国民の共通認識として、これまでのように原発の運転を9つの電力会社に任せるやり方は改めなければならない。原発は当然国営化されるべきだ。私は、今後原発は段階的に廃止すべきだと考えているが、一度に廃止するのは無理だから、国の責任で十分な安全対策を施した上で、耐用年数(40年)を迎えた原発の継続運転を行わず、段階的に原発を廃止していくしかないと思う。もちろん、中部電力浜岡原発のように特に危険な場所に立地している原発は、早急に運転を停止すべきだが。

福島第一原発の1号機は、事故直後の先月下旬、運転開始満40年を迎えた。今後、一時の原発建設ラッシュ時に建設された原子炉が次々と耐用年数を迎え、今回の福島第一原発事故によって、新たな原発建設を受け入れてくれる自治体があるとはまず考えられないから、民主党であれ自民党であれ、政策を「脱原発」へと舵を切らなければならないことは当然だ。それしか選択肢がない。そんなことはあまりにも明らかだから、菅直人枝野幸男も思い切った政策転換を口にするのである。

『Living, Loving, Thinking』の記事「原発論争(メモ)」経由で知ったのだが、不動産コンサルタントの伊東良平氏が東電の送発電分離論を唱えているという。飯田哲也氏や金子勝氏の論考を読んできた読者なら、何も東電に対象を限らずとも送発電分離論はおなじみだろうと思うが、要するに発電を自由化せよという議論だ。これは、自然エネルギーを推進する議論において必ず出てくる話だが、従来はそれこそ「1940年体制」以来の規制に守られて、電力会社が発電事業を地域ごとにほぼ独占していた。この体制は、原発を推進する国策には不可欠であり、だからあれほど新自由主義者たちが「規制緩和」を声高に叫んでも、その規制緩和は発電事業には決して及ばなかったのだ。

直近の東電の「計画停電」に対しては、あの新自由主義の象徴のような森ビルが、自家発電した電力を売電をしても良いと申し出たことがテレビなどでも報じられたので、耳にした方も多数おられると思う。東電などは技術的な課題を理由に反論してきたのだが、この問題は技術的な問題より規制が支配的な要因になってきたことは、これまでにも識者が指摘してきたことだ。

この件も、政府が「原子力に依存しているエネルギー政策を見直す」方針を明らかにした以上、今後活発に議論されることになるだろう。